2014年8月31日日曜日

完璧さへの憧れと不完全さへの恐れ



それが純粋な目的となると結構しんどいかもしれませんが、完璧を目指すことはあくまでも手段としては必要なことだと思います。
私は大変人間的に欠陥の多い人間で、これまで人並みに暮らしてこれたのも、家族をはじめとした周囲の方のおかげだと心底感じずにはいられません。
それでも、完璧になろう(≒欠陥を減らそう, 治そう)としています。
でも最近、自分はただ"不完全さを怖がっている"だけなんだなあと思います。

現在、ひょんなことからタイに滞在しています。
これまでも、その多くが学会・出張等であったとはいえ人並みくらいには外国に行ってきましたが、徐々に一人旅で"楽しい!ワクワク!"ではなく"1人だと寂しいなあ"と思う機会が増えてきたことに何か衰えを感じずにはいられません。

しばらくタイには滞在するつもりなのですが、海外にいると自分が"完璧を目指す人間"ではなく"不完全を恐れる人間"なんだなあと思います。
例えばここタイではあまり英語が通じず、日本語と英語しか話せない自分には言語面でのハードルが比較的大きいのですが、それだけでちょっと気負ってしまいます。
しかしながら当然これまでタイはおろか東南アジアを訪れたこともない自分がタイ語を話せないのは当然のことで、そこで負い目を感じるよりはそれを楽しむことだって(理想論ですが)可能なはずです。

思えば、ずっと田舎で育ってきた中学生の頃、初めてカリフォルニアに住んだ時には、全く英語も話せず日本以外でのルールや危険も理解せず、とにかく"楽しい!こんな世界があるんだ"と思っていましたし、Doという単語を知らずI am not like banana (私はバナナが嫌いです、の意)でずっと通していました。
今思えばただの無知からくる蛮勇だったのかもしれませんが、それでも"変な英語使いやがって"と思われることにそんなに抵抗はなかった気がします。

ちょっと買い物するにも電車に乗るのにもガイドブックで調べてから出かけるのは、勿論良いことなのでしょうが、我ながら違和感がありありです。

"不完全さを怖がらない"ということは別に"ありのままでいいんだよ"とかレリゴ〜レリゴ〜ではなく、"自身の欠陥を欠陥により生じる不都合を通して実感できる"ことかと思います。
失敗を恐れてもいいけど、失敗をおかすことは恐れないというのでしょうか。

成長への最も確実な方法は、自身が快適な環境を飛び出しシャカリキ頑張ることだと思います。
そういう点で、”完璧を目指すこと”ではなく”不完全さを恐れている”状態ではなかなか成長できません。こうやって文章にすることで思考が整理できたので明日からはウザがられてもタイ語でしゃべる練習をしようと思います。

そういえば、今後大きな企業の管理職は英語とプログラミングが共通言語となり、そこから他の言語を話せたり言語開発のレベルまで出来ることが付加価値になるだろうという話を以前聞いてふ〜んそうなのかなと思いました。
自分の子供が大きくなった時には親父よりも遥かにハイスペックを求められるのはかわいそうだなと思いましたが、親父がコレだと管理職にはなれそうにも無いので杞憂だなと気付きました。

日本以外に滞在する時には歯ごたえの良い青リンゴを栄養源&間食としてよくかじっています。

2014年8月17日日曜日

日本語がうまいということ

グローバルとかリーダーシップとかイノベーションとかクリエイティブとかバズワードが飛び交う世の中ですが、自分の「グローバルで無さ」よりも「日本語の下手さ」を実感することが多い今日このごろです。

英文をネイティブ・チェックしてもらうと色々な細かい点に修正が入るのは当然のことですが、日本語で書いた文章を後で見返してみても結構修正が多いのに驚きます。
(例えば「後で見返す」というのは「見返す」という言葉自体に「後で」という意味が含まれているのではないか?とか)

多分私が日常的に書く書類の量というのはそれほど大したことはないと思うのですが、例えば資金獲得などのためにちゃんとした文章を書くと結構な時間がかかります。
勿論書いた数だけ文章の作成スピードや質は上がっていくと思うのですが、「こなれた感」はある割にイマイチグッと来る文章になっていかないのも事実です。

実際のところ文章の上手さというのは語彙の豊富さや文章的な技巧だけでなく、「どれほど伝えたいことがあるか」とか「どれほど内容に自身が納得しているか」にも大きく影響されるものです。
仕事の文章のクオリティ向上などはロジカル・ライティングなどの本で補えるところが大きいのではないかと思いますが、それが言説の「面白さ」には残念ながら直結しないようにも思います。

自戒の念を込めて、自身の伝えたいことを日本語で伝えられるようにという意識がもっと必要だと思います。グローバルな人材を育てたいといって躍起になっても、グローバルであること自体が目的化している場面が散見されたり特にグローバルである必要がない人をグローバルにすることの無意味さを若干ながらも感じているからです。

「グローバルな人材」というのがアメリカの大学で学位を取る/ 国際機関で働ける/ 外務省に勤務できる/ 国際的な企業で働けるといったどうも対症療法的な定義になっていたりすることも多く、そういったゴールが格好よく見えるのはわかります。またパッケージの美しいものを獲得するには勿論それなりの苦悩があると思いますし、そういった経験を一次経験として体験していない自分には決して否定出来るものではありません。(特に否定する気も無いのですが)

ただ結局、伝えたいことがある人ってどのくらいいるんだろうなあと疑問にも思います。
結局日本語の下手さというのは伝えたいことの薄さにも起因すると思うので、結局自分の日本語の下手さというのは「面白く無さ」であり上記の薄さが原因なんだろうなと思います。

ということでブログが役に立つかはあまり分かりませんが、日本語のうまい人間になるために日本語のうまい人の文章を読んだり伝えたいことは形にして確認したいなと思っています。


あとがき
画像がないとポップさに欠ける記事になりますね。